2019年4月5日(金) ディボーション聖句 マタイの福音書15:1~9 1そのころ、パリサイ人や律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て、言った。 2「あなたのお弟子たちは、なぜ長老たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」 3そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。 4神は「あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言われたのです。 5それなのに、あなたがたは、『だれでも、父や母に向かって、私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりましたと言う者は、 6その物をもって父や母を尊んではならない」と言っています。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のみことばを無にしてしまいました。 7偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。 8「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。 9彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを 教えとして教えるだけだから。」 [聖句メッセージ] 本日からマタイの福音書は15章です。 1節『パリサイ人』は旧約聖書の律法を守らぬ人たちを差別をして、相手にしなかったユダヤ教徒達でした。当時のユダヤ人の大半は、このパリサイ人たちだったのです。 また『律法学者』とは当時の神学と法律の専門家になります。 1節,当時のパリサイ人と律法学者たちは 旧約聖書の律法を守れぬ欲望に囚われた人、霊的無知 無学な人、貧しい人や罪深い人々を軽蔑して、差別していました。そこで主イエスは、人は皆、たとえ、どんなに立派な信仰があると自負したとしても、神愛と隣人愛に伴う悔い改めがなければ、信仰は意味がないというBibleメッセージを語り続けたので、パリサイ人や律法学者たちから憎まれて命まで狙われるようになったのです。聖書は、神に選ばれて福音や真理を証しする義人は、時にはイエスのように誤解されて煙たがられたり、憎まれることもあると預言するのです。しかし同時に、聖書は、誰をも、何をも恐れず、福音や真理を証しし続ける人はみな、神様からの特別な恩恵や救いを受けられると約束するのです。周囲の人々がどうであれ、福音や真理を証しし続ける人は皆、永遠に報われるのです。 第1ヨハネの手紙4:16『私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。』 1節,またBibleで、人生での恐れやネガティブ思考とは神の愛と恵みを締め出す、何よりの人生の敵になり得ると教え説きます。神の愛とみことばを堅く信頼して、人を救う愛の使命のため、毎日のように福音や真理を証しし続けることを恐れず、後回しにしなければ、神さまはあなたの生活や人間関係に表れて下さると教え説くのです。それさえ 大切に証しし続ければ、あなたの人生から恐れやネガティブ思考は消え去っていき、三年先は、12使徒や使徒パウロたちのように、必ず、大きな良い実を結べるようになれると保証してくれるのです。神愛と隣人愛を 堅く握り締めて、福音や真理を証ししようと尽力する純粋な人々を あなたの神様は放って置かれないと約束するのです。 詩篇73:13『私は手を洗って清くする。』 2節,このようにBibleは、手を洗うことは、手の汚れを落として消毒すると同時に、手を清める作業になると教え説きます。しかし聖書は、食前に手を洗わなければならないとは、絶対的に命じておりません。 しかしこの時のパリサイ人たちは、ユダヤ教の長老たちが言い伝えた常識や伝統を重んじ過ぎてしまい、手を洗い忘れた イエスの弟子たちを責め裁いたのでした。ですから、主イエスはパリサイ人たちに手を洗うか、洗わないかよりも、もっと大切に守るべき真理が 聖書に書いてあるのに、なぜ それを守らず、手を洗えなかった弟子たちを責め、裁くのかとパリサイ人たちを 叱責されたのです。 このように聖書は、真理と言えないことで 人を責め裁く人は皆、神様から裁かれると預言します。聖書は、真理といえない社会常識、伝統や自分勝手な常識感がを 他人に押し付けたり、責め裁かないように教え説くのです。聖書とは、全時代や全世界人類の真理の書。聖書のみことばからまことの真理なのか、矛盾した常識や自分勝手なエゴなのか吟味しながら、生きることも重要なのです。もし 他人から注意されて、それが真理に伴うなら謙虚に受け留めて謝罪して悔い改めたり、真理でないのなら、平和的に聞き流すように対応すれば良いのです。肝に命じあいましょう。 3節,そしてこの時、主イエスは パリサイ人たちが、神のみことばに伴う真理ではなく、当時の長老たちの好みと言い伝えで、弟子たちを責め裁いてきたことを見抜いたので、冷静に神の真理(みことば)で対応して やめさせたのでした。 Bibleは常識とは移ろい変わりやすく、また伝統は時に美しいが、どちらも絶対視するものではないと教え説きます。それらは時代とともに、より良く変わり続けるから味が出ると教え説くのです。 人生で大切なのは 移ろい変わりやすい常識と伝統ではなく、揺るがぬ真理だと教えるのです。しっかり胸に書き記して下さい。 またBibleは、パリサイ人たちのように信仰の長老職者や組織などの上司のすべてに聞き従いなさいとは、教えていません。神の国の文化に行き過ぎた年功序列や男女差別などの差別はないのです。この時代のパリサイ人たちは神の御心や真理を組み違えていたのです。 第1テモテの手紙4:13~16『あなたがたは聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。 また長老たちによる按手の祈りを受けたとき、みことばの預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。これらの務めに心を砕き、しっかりやりなさい。 そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。』 第1テモテの手紙5:17『よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。』 ルカの福音書19:40『イエスは言われた。「わたしは、あなたがたに言います。もしあなたたちが黙れば、石さえも真理を叫び出します。」』 3節,またBibleは、いつも聖書のみことばの教えと預言を 解き明かしている教会の長老職者のみことばの教えや、たとえ未信徒であったとしても、真理に伴う言葉を語る上司と先輩の言う言葉には、しっかり従うように命じています。人を差別しない柔和と謙遜さを 大切に人と向き合い、何よりも真理を重んじて生き続ける人は皆、必ず 神の素晴らしい恩恵や大切な人を救い導ける愛の実を結べると、約束するのです。 ピリピの手紙2:3『何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。』 マタイの福音書20:27主イエスは言った『あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。』 詩篇28:14『幸いなことよ。 いつも主を恐れている人は。 しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る。』 ヤコブの手紙2:23~24『そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰による行いが彼の義とみなされた」という聖書のみことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。人は行いによって、神に義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう』 4~9節,またこの時、全知全能のなる神の御子イエスは、そこにいたパリサイ人たちが『あなたの父母を敬え』という 大切な神のみことばを無視して、両親を邪魔扱いして 冷たく接していたことを知っていました。彼らは年老いた両親の扶養する生活費を すべて神様に献金として捧げたので、扶養出来ないと偽り、両親の扶養義務を怠っていたのでした。彼らは、みことばの真理である親孝行でさえ 行えていなかったのに、偉そうに、弟子たちが 手を洗わなかったことを責め、軽蔑して裁いていたのでした。 あなたは、自分自身が親孝行などの行うべき真理から外れているのに、周囲の人々を 真理と言えないことで軽蔑したり、強く裁きことがありませんか? なぜなら聖書は、他人を軽蔑したり、裁くことよりも、自分自身の罪、過ち、非情さを悔い改めることの方が重要だと、教え説くからです。 しかし、あなたは他人を 責めて裁いたり、軽蔑することよりも、自分自身の親孝行など、真理に伴う悔い改めを しっかりする義人となり変われると期待します。AMEN (祈り) 主なる神様、皆を 移ろい変わりやすい この世の常識や真理でない価値観の支配から解放させ、Bible&Jesusの教える 真理のみことばを 真心から大切に生きられるように助け導いて下さい。 そうすれば 皆、神様からの素晴らしい恩恵や大切な人々を救える 良い実を刈り取れるからです!主イエスのお名前で 期待して祈ります。AMEN!!!
top of page
God's word & Message
〜DEVOTION〜
検索
bottom of page