Jesus said
『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』
2015年11月12日(木)
ディボーション聖句
ヨハネの福音書9:14~29
14ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。
15こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼は言った。「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」
16すると、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ」と言った。しかし、ほかの者は言った。「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができよう。」そして、彼らの間に、分裂が起こった。
17そこで彼らはもう一度、盲人に言った。「あの人が目をあけてくれたことで、あの人を何だと思っているのか。」彼は言った。「あの方は預言者です。」
18しかしユダヤ人たちは、目が見えるようになったこの人について、彼が盲目であったが見えるようになったということを信ぜず、ついにその両親を呼び出して、
19尋ねて言った。「この人はあなたがたの息子で、生まれつき盲目だったとあなたがたが言っている人ですか。それでは、どうしていま見えるのですか。」
20そこで両親は答えた。「私たちは、これが私たちの息子で、生まれつき盲目だったことを知っています。
21しかし、どのようにしていま見えるのかは知りません。また、だれがあれの目をあけたのか知りません。あれに聞いてください。あれはもうおとなです。自分のことは自分で話すでしょう。」
22彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。
23そのために彼の両親は、「あれはもうおとなです。あれに聞いてください」と言ったのである。
24そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」
25彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」
26そこで彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしてその目をあけたのか。」
27彼は答えた。「もうお話ししたのですが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」
28彼らは彼をののしって言った。「おまえもあの者の弟子だ。しかし私たちはモーセの弟子だ。
29私たちは、神がモーセにお話しになったことは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らないのだ。」
[聖句メッセージ]
昨日の続きです。
本日も、幾つかの聖句を上げてからご説明します。
・創世記2:1~3
『七日目は、あなたの神、主の安息である。だから、あなたはどんな仕事もしてはならない。主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ主は安息日を祝福し、これを聖なる日と宣言された。』
・出エジプト記31:15
『人は皆六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目は、主の聖なる全き休みの安息日である。安息日に仕事をする者は、誰でもいつか死なけれなければならない。』
14節 (14ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。)
このようにBibleは、人は皆、週一度は仕事を休んで、心体を休ませるために造られており、週一度の安息日とは、本来は神様から受けた聖霊力と永遠なる生命力を衰え死なせない為に必要な聖日礼拝日であると、教え説きます。
聖書は,人は皆、忙しく仕事ばかりし過ぎれば,真の自分らしさと心の豊かさや愛力が衰え死んでしまうので、聖日が必要不可欠だと教え説くのです。
あなたの心霊の状態と、父なる神様との関係はいかがですか?
日々のディボーションにより、自らの生活習慣と心の状態を省みることが大切なのです。
そして、もしズレがあるのなら主イエスの十字架力に祈り縋ることです。
なぜならBibleは、全人生と全生命とは父なる神様から任された一時的な恵みであり、自分勝手な欲望ばかりに使い果たしてしまえば、人は皆、永遠なる生命力と天国行きの権利を失うことになると、教え説くからなのです。
またBibleは、週一度の安息日(休日)に仕事をせずに聖日礼拝に行ける人とは、実は、それだけで、神の特別な安息の恵みを受けられている人であり、父なる神様から与えられた聖霊力と愛力を充電して強められる特権を受けた神の選民であると、教え説きます。胸に書き記して下さい。
あなたに聖日礼拝を守れる、真の自由と神の国の特権や聖霊力が与えられるように、祈ります。
・マタイの福音書12:9~14
『イエスは安息日に会堂に入られた。そこに片手のなえた人がいた。そこでパリサイ人と律法学者たちはイエスに質問して「安息日にいやすのは正しいことでしょうか」と言った。イエスを訴えるためであった。
イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。すると、パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談し始めた。』
15~17節 (15こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼は言った。「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」16すると、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ」と言った。しかし、ほかの者は言った。「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができよう。」そして、彼らの間に、分裂が起こった。17そこで彼らはもう一度、盲人に言った。「あの人が目をあけてくれたことで、あの人を何だと思っているのか。」彼は言った。「あの方は預言者です。」)
このようにJesusは、必要以上の労働をしてはいけない週一度の聖日(安息日)に、盲目な人を癒してあげたことが律法に背く、行き過ぎた労働行為だと見なされてしまい、ユダヤの権力者(律法学者や議員)たちから責められ、追い込まれました。
しかしJesusは、ご自分は安息日を破ってまで労働をしていたのではなく、主なる神様に祈り縋ってきた盲人をみことばで癒してあげただけだと、証しされたのでした。
Jesusは、それは必要以上の労働ではなく、正しい神のみことばと愛に基づいた善行だと言い返したのです。勿論Jesusは、全く謝礼も受け取っていませんでした。
18~27節 (18しかしユダヤ人たちは、目が見えるようになったこの人について、彼が盲目であったが見えるようになったということを信ぜず、ついにその両親を呼び出して、19尋ねて言った。「この人はあなたがたの息子で、生まれつき盲目だったとあなたがたが言っている人ですか。それでは、どうしていま見えるのですか。」20そこで両親は答えた。「私たちは、これが私たちの息子で、生まれつき盲目だったことを知っています。21しかし、どのようにしていま見えるのかは知りません。また、だれがあれの目をあけたのか知りません。あれに聞いてください。あれはもうおとなです。自分のことは自分で話すでしょう。」22彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。23そのために彼の両親は、「あれはもうおとなです。あれに聞いてください」と言ったのである。24そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」25彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」26そこで彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしてその目をあけたのか。」27彼は答えた。「もうお話ししたのですが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」)
しかし、そこに居たユダヤ人の半数くらいは、その盲人の証しを信じず、盲人の両親まで呼んで騒ぎを大きくして、Jesusは、安息日まで利用して自分の利益の為の宗教活動、医療活動、経済活動を貪欲にやっていた罪人だと、裁き始めたのです。
・マルコの福音書12:33
『「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する」と言うことは、どんな全焼のいけにえや物事よりも、ずっとすぐれています。』』
・ヨハネの福音書7:21~24
イエスは彼らに答えて言われた。「わたしは一つの癒しのわざをしました。それであなたがたはみな驚いています。また、モーセはこのためにあなたがたに割礼を与えました。――ただし、それはモーセから始まったのではなく、父祖たちからです――それで、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てて罪人扱いするのですか。うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」』
27~29節 (27彼は答えた。「もうお話ししたのですが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」28彼らは彼をののしって言った。「おまえもあの者の弟子だ。しかし私たちはモーセの弟子だ。29私たちは、神がモーセにお話しになったことは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らないのだ。」)
またJesusは、ご自分は安息日に行き過ぎた仕事をしたことなどなく、全盲などの障害者や病人たちと、人生を悩み苦しんで祈りに来ていた人々を癒してあげただけであり、それらは神のみことばと愛に基づいたりっぱな奉仕で、隣人愛の良い実だと弁明したのです。
そしてJesusは、ユダヤ人たちが敬愛していた神の預言者モーセでさえ、大昔、安息日に、人々に割礼を施していたではないかと、反論しました。
『割礼』とは、神の民たちが自らの男性器の包皮の一部を切除する手術(儀式)であり、「神の子」とそうでない人たちとの聖書的な区別の風習でもありました。
またJesusは、こうも反論しました。「あなたがたは歴史的人物のモーセが安息日にした割礼の働き(手術)は、行き過ぎた医療行為(仕事)ではなく、立派な神の働きだったと言うくせに、なぜわたしが、安息日に盲人たちの癒しの奇跡を起こしたことについては、行き過ぎた労働行為だと責めるのですか?聖書をよく読んで、正しい神のジャッジをしなさい!神は人の上辺ではなく、その本質を見極められるのだから!」と厳かに命じられたのです。
あなたは、Jesusや盲人を差別したユダヤ人たちのように...人を区別し過ぎてしまい、特定の人ばかりをえこひいきし過ぎたり、特定の人だけを無視したり、また厳しく対応するような過ちを犯すことはありませんか?こういう人に、神の味方と援護は期待できないのです。
そしてBible&Jesusは、仕事や経済活動よりも、人生にはもっと大切なモノがあると教え説いており、神の永遠なる赦しを受けた人には神の使命と愛の奉仕が、実は、何よりも一番重要だと、教え説いたのです。
あなたにとって、一番大切な働きとは何ですか?それは、人として、また、神に選ばれた者として、誇らしく語れることですか?
あなたのJesusは、週一度くらいは、この世の生活と営利活動を止めて聖日礼拝に行き、死後の永遠なる故郷となる「神の国」と、そのみことばの義を第一にできる心霊と生活の余裕と清さが神の絶大なる恵みと、何が起きても動じない聖霊力と精神力に繋がると、教え説いたのです。
あなたに与えられる、神の圧倒的な恵みと、何が起きても動じない聖霊力と精神力に期待します。AMEN
(祈り)
主なる神様、皆を聖霊に満たし、永遠なる視点で人生と生活習慣や人間関係を築けるように助け導いてあげて下さい。
そうすれば皆、何をしても、父なる神様からの永遠なる味方と幸運や援護を受け続けられるからです!主イエスのお名前で、期待して祈ります。AMEN!!!