Jesus said
「あなたの信じた通りになるように」
「何も思い煩わなくてもいい」
「勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」
2015年8月3日(月)
ディボーション聖句
ルカの福音書18:9~14
9自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
10「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
11パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
12私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
13ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
14あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
[聖句メッセージ]
昨日の続きです。
・ローマ信徒への手紙3:10
『聖書は、次のように書いています。「義人はいない。ひとりもいない。」』
9節 (9自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。)
このようにBibleは...人は皆、自分勝手な欲望と罪悪を思い行う性質を持っているので、完全な正しい義人など、あり得ないと説いています。
だから誰もが、真理を学び、自分自身の限度や限界をわきまえるようにと、忠告しているのです。
Bibleは...人は皆、罪悪や過ちを犯すので、死後の天国行きには、主イエスの十字架による身代わりの死と弁護が必要不可欠だと、教え説くのです。胸に書き記して下さい。
9節,しかしパリサイ人たちは、幼い頃から礼拝を守っており、宗教による人間関係と伝統を大切に生きてきたので、自分たちは、ある程度は正しい義人だと、勘違いをしてしまったのです。
10節 (10「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。)
そしてパリサイ人は、以下のように祈りました。「主よ。わたしは、あそこにいる取税人たちのように経済第一主義でなく、女性遊びもしない男でいられることに感謝します!また、私はあの食いしん坊でケチな取税人たちのようでなく、週2度の断食や、月一回の10分の1献金を捧げられることにも感謝します!」
あなたは、パリサイ人たちのように、他の罪深い人々や人生に思い悩む人々を見つけると、自分の方が正しい義人だとか、自分の方が幸せ者などと、勘違いすることはありませんか?
Bibleは、そんな尺度など、当てにならない。むしろ、誤っていると教え説きます。肝に銘じて下さい。
・ローマ信徒への手紙12:3
『私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。
いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。』
・ヤコブの手紙2:8~10
『もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いはりっぱです。しかし、もし人をえこひいきして、差別するなら、あなたがたは罪を犯しており、聖書の律法によって違反者として責められます。聖書の律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した罪人となるのです。』
10~13節 (10「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。11パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。12私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』13ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』)
このようにBibleは、人は皆、神の御前には存在価値が等しく、個々の才能に多少の違いはあれども、特段に大差はないと、ハッキリ教え説きます。
またBibleは、愚かなパリサイ人たちのように、いつも他人と比べて自分は正しいとか。または、他人と比べて、自分は恵まれていて幸せ者だと思う人こそ、神に責められる違反者だと、教え説くのです。気をつけて下さい。
誰でも自分を他人と比べて過大評価する人は、神からの報いと神の評価が低くされるからなのです。
14節 (14あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。)
しかし、経済第一主義の生活習慣を築いてしまっていた取税人は、以下のように祈りました。
「主よ。私はいつも自分勝手で、経済活動にばかり時間と労力を費やすだけの愚かな罪人です。どうか哀れんで、お赦しください!」と言ったのです。
・ヤコブの手紙5:16
『ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。それは、いやされるためです。そういう義人の祈りは働くと、大きな力が表れます。』
14節,このようにBibleは、わたしたち人間は、自らの罪悪や過ちを認められる謙虚さと気量を大切にして、神を愛して他人を励ますために、自らの罪や過ちを証ししたり告白出来る時のみ、真の正しい義人としてカウントされると、教え説きます。
自慢する証しよりも、他人を救い、また励ますために自らの罪悪や過ちを証ししてあげられる愛の人の方が、神の奇跡や十字架の報いが大きく現れるのです。あなたに現れる、義人の姿に期待します。AMEN
(祈り)
主なる神様、皆を聖霊に満たして、自慢しようとする証しよりも、周囲の人々を励まして愛し、救い導くために、自らの罪悪や過ちをより多く証し伝えられるように、助け導いてあげて下さい!
そうすれば皆に、神の大きな奇跡や報いが数多く現れ出すからです!主イエスのお名前で、期待して祈ります。AMEN!!!